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「見るものもない」体験

「事実」が明確になったあと、これが決定(けつじょう)の体験か?というのは何度かあった。しかし、いずれも違った。まだはっきりしない「見るものがある」(見るものが残る)体験だった。

 

さらに徹底、坐禅するようになって半年近くたった坐禅中にそれはあった。代々木の坐禅会、二日目だった。「見るものもない」体験で決定した。疑義がなくなり納得した。

 

本当のことだった。初めて老師の坐禅会に参加してから十一カ月足らず、徹底坐禅に取り組んで半年足らず、松本自證師、貫道老師の教えと独参、義衍老師のことばがあって決定した。

 

 

”自分がすっかりいなくなりましたってことが、わかる間は駄目なんです。見てるんです。看てるんです。どこかで見てる自分がまだいるんです。これが多いんです。”

-「げんにーび 正法眼蔵現成公案提唱」井上貫道 から引用

 

”その自他の関係を忘じ切ってしまった状態においての生活が、わたくしどもの平常こうして行われておるときの状況です。ですけれども、一度、自己を忘ずるということがないと、うなずけないのです。”

 

”見解を離れると、そういう事実のままに生活できる。そして、縁に触れて一念がポッと起こったときに、はじめて人間の見解というものと、心(しん)の動きというものの「際(きわ)」が、キチッとするのです。

 そこで、はじめて無明の煩悩というものの起きる根源が切断される、はっきりと切れるということがありますから、そこではじめて自分の真相にお目にかかって、「ははぁ、そうか。このように初めから解脱をしておったんだ。要らん手続きをせんでもよかったんだ」ということがはっきりするのです。”

-「井上義衍老師語録 併般若心経講説」井上義衍 から引用