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非思量

#025 非思量

 

【老師】

(扇子を広げ、ひっくり返しながら)なんでこういう風になるんだろう?

(扇子を広げ、ひっくり返しながら)向こうの人が裏返したからなるのでしょうか?(笑い)そう思ってるでしょう?じゃ、そういう事を思わなかったら、どうなるんですか?

(扇子を広げ、ひっくり返しながら)こうならないんですか?裏返してるとも思わないでいたら、こうならないんですか?どうですか?思ったからそうなるんじゃないでしょう?人間て思ったから、こうなると思ってるんですよ、そんな事はないですよ。

 

いつも、よく出て来て聞いてくれてるから、わかるのかなって思った人がいて、その方にあの人の話何言ってるかわかりますか?って聞いたら、

「いや~、何言ってるか、ぜんぜんわかりません。」

って言われて、それでも、その人出て来て聞いてるんだねー、なんだろうね?

そのくらい、わからないんだったら、いい加減にやめそうなもんだけど。(一同笑い)

という事は、本人が全然わからないって言ってる割には、わかってるからでしょうね。

少なくとも、しゃべってると聞こえてるんですよね、否応なしに。

間違いなくそこに出て来てこうやっていると、しゃべってる時に居ると聞こえるんだよね。

わかるとか、わからないとか言うけども、その前に聞こえるんだよ。

それがあるから居るんだろうね、それがなかったら…。

でも人はそういう風に、わからないって言ってしまうんだろうねぇ。

こういうふうに、カチッ(扇子で机をたたく)なっている事実がありながら。

しゃべってるのが、そのとおり聞こえる事実がありながら、そこに居て。

 

カチッ(扇子で机をたたく)、何がわかったんですか?

カチッ、これで何がわかったんですか?

カチッ、何がわからないんですか?どっちでもいいけど。

カチッ、人間がわかるとか、わからないとかっていう様な範囲の事じゃないでしょう?

カチッ、これによって、日々の生活が成り立ってるんですよ、事ごとくそうでしょう?

カチッ、こうやった時に、こうなってるから生活が成り立ってるんでしょう?

そのとおりなってるから、生活が成り立ってるんでしょう?

必ず、そのとおりの事が、そのとおり、どこを取り上げたってキチッとそうなってる、それが、みなさんの真実じゃないですか?

そっちを見ないで、自分のヘボな頭の中で考えた事の方を中心にして、そして真実を自分の頭の中で考えた、こういうのが真実じゃないか、こういうのが人の幸せじゃないか、こうあるべきじゃないか、っていう思いを掲げて、ウロウロ、ウロウロしながら探すんでしょう?

そんなの、本当に自分勝手な事やってるだけじゃないですか?わがままな。

一人ならまだいいですよ、十人そういう事やってる人がいてごらんなさい、ゴチャゴチャになるよもう、収拾つかないよ。

だけど、だれもそういう事しないから、いつでも、こんなに整然としてるじゃないですか。

騒ぐのは自分の頭の中だけじゃない?。

自分の頭の中で思い起こした事が、自分を騒がしてるだけだから、かろうじてこうやって居れるじゃないですか?

整理すべきは、キチッとするとこ、どこかって言ったら自分自身のあり様でしょう?

「気に入らねぇな」っていう思いを外れたら、楽になるのでしょう?

他の人、全部帰れって言わなくたって(笑い)このままでいんでしょう?仲良く暮らせるでしょう?

 

そういう事があるから、

"この不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。"

この人間の考え方を離れた絶大な、何ものにも替えられないほど確かな揺るぎのないあり方、これ非思量ですよね?

これが坐禅をする時に本当に大事になるんじゃないですか?それを相手にしてる。

だから坐禅を知らない人が結構いて、坐禅をしながらですよ、数をかぞえたりする人いるよ。

どう考えてもおかしい、坐禅をしながら数をかぞえるって、水を飲みながらジュースを飲むようなもんですよ。

そうじゃないですか、坐禅をしながら数をかぞえるって、変じゃないですか?気が付かないかしら?そういうの、ねぇ?

なんのために坐禅しながら、数をかぞえるんでしょう?なんか坐禅中うまくいかないからって、何がうまくいかないんだろう?

坐禅を知らないからでしょう?坐禅という事が、どういう事をするか知らないからでしょう?

坐禅て、人の思いをどうこうする様な行じゃないのよ。

みなさんが忘れている、だれしもが今真実に生きてるこのものがある、そのものに目を向ける事を忘れてるから、考え方があってもいいから、そんな事ほっといて、この真実がどうなってるかの方に、こうやって居てごらんって教えてるんです。

これがわかると、こっちの考え方の方でグズグズ言ってる事が全部とれるんです。

さっきの草取りの奥さんと同じ。

本当に草をちゃんと採るようになったら、問題が全部片付くようになる。

だけども、その問題なってるやつを草を採りながらどうかしようと思ってるから、役に立たない。

そんなの坐禅にならないんだよ。

 

だから、それぞれ今まで坐ってきた時に、どういった風に過ごしていたか、もう一回看てごらん。

言われてるとおりやってるのか?

そういや、全く違う事をしてった気づいたら、修正しないとまずいですよね?

修正するって事は、どういう事かって言ったら、今の本当の生きてる事実に、こうやって居るっていうだけでしょう?

それを戻ってくるとか、やり直すって事じゃないですよ、言っときますけど。

それ、どこにも行かない、探す用がないほど確かな今、だれもそういう風な生き様に生きてる。

だけど、こうやって話をすると、考え方を止めてそこに戻ってくるとか、やり直して全てやめてこれだけに向かうとか、そういう風に受け取るんですよね、それ全部、考え方だから、そういう風にしか受け取れないんです。

事実にこうやって触れるっていうのは何もいらないじゃないですか?

こうやっって、カチッ(扇子で机をたたく)これに学んだらいいじゃないですか?

みな嘘の事やってる人、一人もいないじゃないですか?

歩いても、なんでもいいじゃない、今やってること、手当たりしだい、大丈夫でしょう。

 

"坐禅というものは、そういう大きな問題を引っ提げて、みなさんに迫っておる"

です、ね?これいつ頃、お話になられた提唱か知りませんが、現在の世界だって乱れてるでしょう?

外に大きく広げなくたって、自分自身の中に目を向けたって乱れてるでしょう?

自分自身を自分自身で、どうしようもなくて苦しんで生きてる人、たくさんいるのでしょう?

そういう時にこういう教えって、すごいじゃないですか?

自分自身の真相にこうやって触れて見ると、どうもしなくてもちゃんとしてたって、気づくようになってる。

 

提唱質疑から