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主観も客観もない

#051 主観も客観もない

 

【質問者】

主観と客観という言葉がありますが、老師が今言われてたのは、どっちかと言うと主観が全部みたいな感じがするのですが…

 

【老師】

だから、それはみな考え方の話でしょう?

こうやったときに(扇子を広げる)、今見えてることは、主観か客観かどっちの見方ですか?

 

【質問者】

それは、見たまま。

 

【老師】

でしょう?

それくらい、主観も客観もないじゃない。

 

【質問者】

はい。

この前も質問したのですが、客観的に世界があって、私が居てるみたいな意識がどうしても抜けないです。

 

【老師】

だって、今、こうやって生きてることは、主観的な生き方か、客観的な生き方かって、ないじゃない?

誰も、本当にこうやって生きてる様子があるだけじゃん。

 

【質問者】

だから、なんて言うか…、全部、私の活動という風におっしゃられた。

なるほどなぁというのは、ちょっとなんか思ってます。

 

【老師】

みんな、そうですよ。

 

【質問者】

それが、なかなか分かりにくいというか…

 

【老師】

だって、他の人の見方なんかしないじゃない?

他の聞き方なんか、したことないじゃない。

しようと思ったって、出来ないでしょう。

こうやって、パン!(扇子で机を叩く)、音ひとつ聞くにしても、他の人の聞き方なんか、ないじゃないですか。

みんな、そうじゃん、今、自分のふれてる様子があるだけじゃない。

 

だけど、この頭は(頭を指し)私はそうだけど、他の人もいろんな聞こえ方してるんだろうなぁ、と思う力があるもんだから、もっと、いろんなことがあると思うわけでしょう。

そして、自分の聞こえてること以外に、人の聞こえ方をなんか欲しがるじゃない?

自分の聞こえてるだけで、なんか足りないような気がするのかもしれないねぇ。

自分の確かさが、人のことを聞いて、初めて立証されるように思ってるんでしょう。

そんなことは、ないですよ。

パン!(扇子で机を叩く)

他の人の聞き方なんか、一切いらないよ。

したことがないんだもん、今日まで生きて来て。

パン!(扇子で机を叩く)

パン!(扇子で机を叩く)

みんな、他の人の聞き方したことある?(会場を見回す)、他の人の見てる見方をする?

必ず、自分の様子だけじゃない、自分の見てる様子だけじゃなですか。

それで、何不足ないでしょう。

 

こうやってるときに、他の人の見方がないから、いいんでしょう?(笑い)

こうやってるとき、他の人の見方が一緒に出てきたら、大変ですよ(笑い)。

ないですよ、とことんないですよ、自分の聞こえてる様子だけです。

それは裏付けをすると、どういうことになるかというと、まず、苦しまない、ということじゃないですか。

悩まない、ということじゃないですか。

迷わない、ということじゃないですか。

どうしなくてもいい、ということじゃないですか。

ハッキリしてる、ということじゃないですか。

全て、願ったり叶ったりのことが出来てる、ってことの証明じゃないですか、それは。

だけど、それに自信がないじゃん。

なぜ、自信がないかって、そういう風になってる自分の真相に自分がふれないから。

悟ったら、もっと違うようになるんじゃないかと思って(笑い)。

本当にそう思ってる、不思議ですねぇ。

 

知らないうちに自分の中に、悟るって、こういう風になることじゃないかって妄想を描いててですね、こうやって、パン!(扇子で机を叩く)教えても、「悟ったら、もっとハッキリするのかなぁ?」って(笑い)。

これが、パン!(扇子で机を叩く)、ハッキリしてるってことじゃないですか、今、こうやって、パン!(扇子で机を叩く)。

このハッキリしていることがあるのにもかかわらず、「そんなことじゃ…、悟ったら、もっとスッキリするのかなぁ?」とそういうものを持って、ものにふれてるから、真相がすぐずれてしまう。

 

ここに来るときも駅で話してたんだけども、香厳(きょうげん)という人が、どうしても修行が途中でうまく進まない。

いくら教えられても、教えられたことを聞くと、理としては百パーセント分かるくらい利口な人なんだけども、どうもスッキリしない。

で、師匠のところを離れて悶々として生活をしてたときに、お掃除をしてて、石ころが竹藪の方に飛んでいって、竹に石が当たったときに悟ったて話がある。

その話をその方がしておってですね、どうしても香厳のようになれない、そんなこと言ってました。

こうやったときに、パン!(扇子で机を叩く)、香厳が竹に当たった音を聞いたようになると言うことはですね。

こうやったときに、パン!(扇子で机を叩く)、こういうふうに、パン!(扇子で机を叩く)聞こえるだけってことなんですよね。

この他に、香厳が竹に石が当たった音を聞いた様なものを想定して、そのようになるってことじゃないんですよね。

だけど、学ぶ人は、そういう風に学んでる、これ厄介なことだねぇ。

これじゃ、分かりっこないですよね。

他の様子が出て来ないってだけじゃないですか!こうやったときに、パン!(扇子で机を叩く)。

香厳もそうだった。

だけど、今の人は坐って悟った人の話を聞いてるもんだから、ああゆう風になれたら悟るんだって思ってる。

じゃ、ああゆう風になれるかって、どういうことかって自分で勝手に想像してる。

その想像したものを持ってて、パン!(扇子で机を叩く)、こうやってふれて、どうも、そういうことじゃないんじゃないかって、いつもそうやって眺めてるから、この音にふれても香厳が聞いたような風にならない。

香厳は聞いたときには、只こういう風に、パン!(扇子で机を叩く)聞いただけですよ。

 

もうひとつの様子なんてないんですよ、生活してて、いつも申し上げてるけども。

人間、もうひとつのあり様なんかないでしょう、持ってないでしょう、底抜け。

二十四時間、ずーっと見てごらんなさい。

もうひとつの生き方を並べて持ってる人なんか、誰もいないよ、そういうことでさえも知らない。

だから比べて、どっかに行きたくなるんでしょう、探すんでしょう、他のことを。

それだから、今の様子が手に入らないのは当たり前じゃないですか。

今、こうやってることがありながら、もうひとつの様子を自分の頭の中に浮かべて、これよりももっと素晴らしいものがあるんじゃないかって、他所(よそ)向くわけだから、見えっこないじゃないですか。

それが修行が、なかなか正しく出来ない、時間がかかる所以(ゆえん)じゃないですか。

目の向け方が全く違うとこだもん。

右みてごらんて言ってるのに、左見てるんだもん、無理だよ。

難しいことは何も言ってないよ、ただ、後はそれ実行して欲しい。

そうすると、ちゃんと分かる様になってる。

 

こうやって、パン!(扇子で机を叩く)音がしたときに、主観、客観、そんなものは一切付いていない、ねぇ。

そんな風に聞こえないじゃん、パン!ていうだけじゃん(笑い)。

主観的な、客観的な、一切ないですよ。

それは聞いた後に、自分の見方を付けてるだけの話。

こうやって(扇子を広げる)見せても、そうでしょう?主観的な見え方、客観底な見え方なんかないじゃない、只このとおりに、なるだけじゃない。

 

【質問者】

あっちで見たものが、こっち見たときになくなるけども、地球はあるやん?みたいな客観的なことを考えて、どう考えたらいいかと…。

 

【老師】

地球らしいものがありますか?あちらを見て、こちらを見て。

 

【質問者】

頭の中にはあります(笑い)

 

【老師】

あちらで見たものがあちらで見え、こちらで見たものがこちらで見えるだけで、地球らしいものなんてないでしょう?

だから、正確にふれてごらんなさい、答えがちゃんと出てるから。

 

【質問者】

それは頭の中で…。

 

【老師】

それは間違いなく、あたまの中で作った映像(地球)です

実際の自分の眼(まなこ)の様子は、こっちの川にふれたら川の様子、山にふれたら山の様子があるだけです。

それ以外のものは見えてないはずです、それで十分でしょう。

どちらにしたって地球の様子ですからね(笑い)、あなたの言葉を借りれば(笑い)。

 

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