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斎座のあと

#054 斎座のあと

 

【老師】

合掌(がっしょう)いただきます。

 

 後唄(ごばい)

 

 處世界如虚空(ししかいじきくん)

 如蓮華不箸水(じれんかふじゃしい)

 心清浄超於彼(しんしんじんちょういひ)

 稽首禮無上尊(きしゅりんぶじょうそん)

 

ごちそうさまでした。

 

食事が終わりましたけど、少し話をしてみます。よくよく考えてみると、食事は、作る人と食べる人という風になるんでしょうね。作る人のあり様に関しては道元禅師という方は、典座教訓(てんぞきょうくん)という書物を残しております。食事に関する重要な役職、典座(とんぞ)という役職で、コック長みたいな役職ですね。それに就いた時に、どういう風に生活をすべきか、ものに対して、食物を扱う、料理をする、そういうことのお示しの一冊があります。そして食べる側に関しては、赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)といって、朝お粥(かゆ)、昼ご飯(はん)、赴(おもむ)く、食べ物に与(あず)かるとき、どういう風にするか、っていうことのお示しの一冊があります。

 

両方を見ていただくと、食事に関することで皆さんが「えっ?」思うような、いろいろ刺激になることが、たくさん書いてあると思うので、読みたい人、勉強したい人は、手に入れて読んでみてください。食事に関して必要なことが、そんなにたくさん書いてあるほど、内容があるということですね。片一方だけじゃ成り立ちませんのでね。

 

赴粥飯法の方には、まずこういう道場に入って、その入り方から、みな書いてあります。坐(ざ)に就(つ)くときの作法も書いてあります。その間に、いろんな音響効果のある鐘(かね)が鳴ったり、木で作った魚、木魚ですね。そういうものを鳴らしたり、それが、どういう風なリズムになってるかってことによって、何をすべきかってことは、みな決まっておりますので、その鳴り物にしたがって、作法を進めるようになってる。そういうことをみな、勉強するわけですね。

 

長いいろんなお経がありますが、今日はその中の一部を読んでるわけです。それぞれ自分の食器を持っておりますので、その食器をここに降ろしてきて、それをどのように扱うかっていうものが、ざっと書いてあります。これだけでも、自分の血肉になるのには、一日三回使って、一年で千回くらいになるかね。だから一年ぐらい、千回ぐらい器を扱うと、お茶のお稽古(けいこ)と同じようにですね、だいたい扱いがなんとなく身に付くという。それまではですね、修行時代、食べるのが苦痛でしょうがない、時間がかかるので足は痛いし、食べたいんだけど、食べてると作法がいっぱいあって、みんな終わっても、まだ済まないっていうんで、半分ぐらい減らさないと、とても付いて行けない状況が続く、酷ですね(笑い)。

 

そういう自分の食器を扱うということは、どういうことが主眼になってるかって言うと、自分の身体(からだ)の扱い方を学ぶってことですよね。だから、こうやって両手がある人はですね、必ずこうやって、両手を使って降ろしてます。あんまり、こんな風(片手で扱う)には、しないんだね。お箸を持ってますから(お箸とお椀を同時に扱う)、お箸の先は手前に向けて、お碗を両手で持って、一口食べたら両手で置いて、ひとつずつ、こうやって取って食べて置いて、また取って食べて置いて、こんなことを多分、一食の中に何百回とやるんでしょう。

 

このときに自然に音がしないようにするとか、大事に扱うということありますから、他に気を回してられない。これ修行するときに、本当に今のことだけに、どうしてもならざるを得ない。そういう風に食事がなってます。これで坐禅を組んで食事をするから、止静(しじょう)といって、坐禅の初めの鐘が三声(さんせい)鳴って、食べ終わると二声(にせい)鳴って経行(きんひん)があって、一声(いっせい)鳴ってそこで礼をして、自分の位置について、お拝(はい)をすると、それで食事が終わる。食事が、一(いっちゅう)の坐禅なんですね。といういう風にして、食事をしています。坐禅と食事は別じゃないんです。坐ってるときに食べませんけど、食事のときには、食べてるということが坐禅の中身です。

 

それから、お給仕をする人と、それを受ける人がいますから、この両者で必ず心を通わさないと、上手に注(つ)ぎ合うことが出来ない。だから、ここで食器を開いて、ここで食器を洗って畳(たた)んで仕舞いますから、食器の中に食べ残しがあるようなことになったら、片付かないわけですね。じゃ、どうして食べ残しが起きるかって言ったら、自分の目でちゃんと確かめて、自分が食べられる量だけ貰わないから、そういうことが起きるわけです。だから、注いでくれる人をちゃんと見てて、自分でもう結構なら合図をして、向こうの人もその合図を待って、それ以上知らない顔して注がない(笑い)。

 

そうすると、ぴったり食事がうまい具合に行く。そういうようなことが、たた食べ方の問題じゃなくて、人生そのものなんですね。人生って、そうじゃないですか。自分とよその人とふれて、毎日生活してるんだから、家庭の中でも。そのときに、そういう心が通じ合うことが出来なかったら、うまくいくわけがない。気を使ってない人は、相手にやらして知らん顔してるんだな、それだめなの。ちゃんと向き合っていないと。

 

黙ってそれをやるんだけど、黙ってやるともっと効果がある。喋(しゃべ)ると耳を利用して理解ができるんだけど、喋らないとですね相手の全身の様子に、こうふれてないと読み取れないんです。それ、すごくいい勉強になる。黙って仕事する。それやっちゃいけない、それやれ、というようなことを言わずに、こうやって仕事をすると、自分でちゃんとその機能を十分に使わないとできないのですね。誠にうまくできている。まぁ、そうやって好き嫌いがなくなるでしょう。それから、協調性ができるでしょう。いろんなことが食事だけで、育つようになってます。

 

そういうものが、今皆さんが食べた中に、本来は勉強されるべきものですけど、まぁこういった道場だから、そこまではやらないけども、その一端(いったん)をご披露(ひろう)してそんなことがおこなわれてるよ、っていうことです。食べる時に本当に食べたとおり、入れたものの味が、そのとおりしてるだけで、こっち(頭を指し)ほとんど使う用がない。こっち(食事の方を指し)が教えてくれる、味も何も。眼(まなこ)はこうやって向かうと、そのものの様子(食事の様子)が全部、頂けるようになっている。いいでしょう?そうやって全身で、つうつうの世界がある。これが食事です。

 

だから、左右にいる人のことなんかを構っちゃいられない。視野には入るけど、食べ残してるとか、好き嫌いがあるとか(笑い)、そんなことは一切しないというのが、食事の作法です。それは、レストラン行っても多分そうでしょう。人の食べてるのを、じーっと見てるのは失礼な話(笑い)。この食事をするときに、給仕をする人の他に、全体を見回す役の人が必ずいます。その人が全体を見て、箸が落ちたら、こうやる(落ちた箸を指さす)と、給仕をしてる人が、さっと行って箸を拾って、きれいに洗って拭いて返します。そんなことがおこなわれる。で、ご飯が終わると部屋に帰るときには、一列に給仕の人が並んで、こうやって(頭を下げて)、出ていくまで送ります。そんなことが、ちゃんとおこなわれてる。

 

げんにーび対話集