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井上貫道老師 神戸坐禅会

提唱質疑から


#1 いつ、どこで、だれが、何を、どのように、どれくらい

 <黒板>

 いつ → いま

 どこで → ここで

 だれが → 私が

 何を → それを

 どのように → そのままにしておけるか?

 どれくらい

 

【質問者】

「いま、ここで、私が、それを…」ってなってますけど、それも「パン!」(手をたたく)この中に入っていますか?

 

【老師】

うん、全部入っていますね。

何を、どのように、みな全部入っていますね。

だから見たらいいじゃんね。

こうやった時に「パン!」(手をたたく)「いつ、どこで、だれが、何を、どのように、どれくらい」

こうやって見てみたら「パン!」(手をたたく)、よくわかるでしょ、自分のことだから。

パン!(手をたたく)「いつ、どこで、だれが、何を、どのように、どれくらい」

こんな簡単な道理なんですよ、ものとしては。

 

自分自身のあり様にふれてみれば、本当にこの身体(からだ)のあり様っていうものは、今の活動している様子以外の何ものもない。

もうそれだけです、徹底それだけです。

この身体は人のことは一切しない。

これを(水が入ったコップ)持ってってと誰かに言われて、こうやって持って行く様子を見ると、絶対、人のことをやっていませんよね。

自分が今こうやって、ただこうやっている様子があるだけだ。

それを、ここは(頭を指して)あの人が言ったものを私が代わりにやってる、そういう風に認識するのでしょう。

実物に触れて見てください。

自分の耳に聞こえたとおりに、この身体が本当に、それをきちっーと守ってやるだけでしょう。

 

(沈黙…)

 

みなさん、修行ってどんなことをすることだと思ってるんですかね。

坐禅でもそうだけど、形を守って過ごすのは一応外から見たら、修行しているって風に見えるじゃないですか。

だけども、形を守ってその時間を過ごすんだったら人形でもロボットでも十分だね。

ロボットの方がもっと耐久力がある。

愚痴も何も言わずに、何十年でもそのまま、こうやっているよ、飯も食べずに平気でいるかもしれない。

そんなことが何になるの?

解決になんかなるのかね?

質問も問題も何もないって生活をしてるっていうけど、そんなにすばらしい毎日の生活をしてるのかしら?(笑い)一切問題がないほど。

そんなことはないでしょ!

気になってることいっぱいあるでしょう?

なんで素直に話してみないのかね。


#2 坐禅の時と坐禅じゃない時、自覚の確かさ

【質問者】

坐禅の時と、坐禅じゃない時に違いはありますか?私は本質的には違いはないと思います。

 

【老師】

ふたつは無いもん、生きてる時に。

坐禅をしてる時と坐禅をしていない時って、ふたつの生き方をする動物じゃないのですね。

 

【質問者】

じゃ、なぜ我々は坐禅をするのですか?

 

【老師】

普段の生活と比べてごらんなさい。

今話した様に普段の生活と坐禅の時のあり方は著しく違うでしょ。

普段は、分別をさかんにおこして生活するのでしょ、ものに対して。

しかも自分の考え方を中心に生活するのでしょ。

西洋の考え方かどうかは別としてですよ、自己主張がものすごく強くなってきて、それがなんか人としてすばらしい様に教えている。

それは世界中の歪みに通じていますよね、いろんなものの。

一軒の家で考えたってわかる。

自分一人の中で考えたったよくわかる。

一番おだやかな時の自分の様子は、そういことをせずにいる時は一番おだやかでしょ。

 

【質問者】

そうすると坐禅をすればするほど、だんだん我というものが少なくなっていくのでしょうか?

 

【老師】

みんなそういう風に考えているんだけども、だんだん取れるなんてことはない。

そんなことはないですよ。

一気に取れてるんだけども、やっぱり自分でそこまで納得しないんだよね、考え方があって。

 

【質問者】

もともと無いものをあると思って、わざわざたてて、もともと無かったと。

でも人間てやっぱり、はじめから無いものを無いって、わからないわけで。

だから自覚するためには、何かたてないといけないですね。

まぁ、常に立ってるのですけどね私みたいなものが。

 

【老師】

自覚するのには、今のあり様が間違いなく誰にでもあるから、その今のあり様に触れたらいいだけじゃん。

他のものを自覚するわけじゃない。

今こうやって生活しているこの確かさに触れるってことで自覚をするんですね。

 

【質問者】

自覚ということは、人に私自覚しましたよね?って確かめてもらう必要もないはずですよね?

 

【老師】

ないことはないです。

ないことはないけども、人にとやかく言われて決めることではない。

自分の内容がちゃんとしてるから、話し合ってみる。

で、ずれがないってことでお互いが許しあう、そういう世界。

許しあうものが無く、単独でただ自分だけで、これで良しってしてるのは、けっこうあやうい。

うん。例えば、薬でいって、この薬を飲んだら効くよって言って、飲まして一人だけ治っただけでは、多分売り物にはならない。

90%とか、90何%ぐらい認めれると公に許可がおりるのでしょ?

そういものが、悟りの内容を点検するとか、証明をするとかって必要性があるってことでしょう。

言うのは自由だからね、「わたし悟りました。問題ないですよ。」って公言したって別にいいわけでしょ。

だけど公言したら、その内容が本当にそうなっているのかっていうのは、それとは別だからね。

虚偽の発言っていうのは沢山ある。

 

【質問者】

最終的には、自分が納得できるかっていうのが…

 

【老師】

そりゃそうですよ。

自分が納得できないものを納得したとは言わん。

 

【質問者】

例えば、人にお前は悟ったと言われたって、自分が納得できなかったらできないし、結局は自分が納得できるかどうかが一番重要なんですか?

 

【老師】

そりゃ、そうじゃなきゃ決まらないじゃん。

そういう例は沢山ありますよ。

人になんか「良しっ!」って言われたんだけど、「何を良しって言ったのか?」言われた人がよくわからないって人がいた。

 

【質問者】

それは悲しいですね。

 

【老師】

それはどっちも悲しいですよ。

許した人も悲しいなぁ。そんなことを許してどうするんだろうって思うんだけど。

普通はそんなのは許さないよね、自分がはっきりしていたら、そんなことでは許さないはず。

もうここらで、いいことにしようかって許す、そんな問題じゃない。

 


#3 坐禅した方がよいか?今とは?

【質問者】

ふだん坐禅はあまりしないのですが、やっぱり見性される方というのは、攝心とか連続坐禅会で、自分で目覚めていかれる方はかなり多いのですか?

 

【老師】

そんなにいないと思いますよ。

 

【質問者】

でもいるということは、坐禅会にもっと参加した方がいいのでしょうか?

そういこと思いながら今日は坐っていました。

 

【老師】

坐った効能というのは、何気なく生活をしている時に知らずに自分自身の今まで、つかまえていたものから離れた生活をしているようなところに触れるからなんですね。

 

【質問者】

そういう時に、こう、ぽっとでてくるような方がほとんどなんですか?

 

【老師】

それは、ほとんどそうです。

 

【質問者】

だから地盤としてはやっぱり一生懸命、坐禅を組んでて…

 

【老師】

とにかくこういうこと(黒板の「我見、旧見、偏見、邪見」を指して)しないのですね。

 

【質問者】

そういう努力というんか、僕には努力なんですけど。

 

【老師】

努力でもいいですね、表現は。

うん。とにかく、このとおり(黒板を指して)やってみる。

 

 <黒板>

 いつ → いま

 どこで → ここで

 だれが → 私が

 何を → それを

 どのように → そのままにしておけるか?

 どれくらい

 

【質問者】

道元禅師がこういう風に坐ったらこうなるよっていうのが「普勧坐禅儀」なので、だからやっぱり坐らなあかんのかなぁと…。

形として坐ってないんで。

 

【老師】

うん、だから、形もあるけども、前にもちょっとふれたけど、「普勧坐禅儀」はですね。

冒頭の方が、坐る前にものがどうなってるかって事が、ずーと書いてあるんですね。

修行するとか、しないっていう前に、ものがどうなってるかっていう事が書いてある。

それを見ると、もう完璧だっていうような内容になっているんです。

そういことが最初に示されている。

その上で、じゃなぜ坐るのか?って言ったら、ものの道理としてはそうあるけども、そのことに本当に、あなたが、実物に触れたかどうかって言われた時に、頭で理解しているだけで終わってるということがあるんですね。

だから、本当に坐って実物に触れて、そのとおりの内容に、こう触れた時に、あっなるほどって合点がいくっていう、そういことが残ってるんです。

それをその次に坐禅の作法とか、いろんな事で展開して、坐っていかせる方法が次にずーと述べられている。

内容は最初からちゃんとしているでしょ。

修行してから、そういことができあがるんじゃない。

だから万人が坐って、そういう風なところに到達できるっていうことが言い切れるわけです。

修行して、だんだんやったらそうなるんだったら、恐らくやれる人は一握りもいないでしょう。

だから、最初からちゃんと出来ている内容で、今、みんな生活している。

だけど、それを妨げるのは、やっぱり、こういう見解(黒板の「我見、旧見、偏見、邪見」を指して)があって、実物にどうしても、直に触れさせない。

考え方を通して、実物に触れているので、わかっているようだけど歯がゆい。

 

【質問者】

考え方というか、考えるくせがついている。

 

【老師】

ついているように思うんですね。

ついているように思うんだけど、こうやった時に「パン!」(手をたたく)、どこに考え方がついているって見てみると、どこにも考え方なんかついて聞いてないんですね。

 

【質問者】

そんでですね、よく最近考えるのは、「今」を今と言ったとたん、もう今はない。

となると、今は言葉では、あるいは認識では捕まえられない。

手をたたい時は、その一瞬は耳の感覚では捕まえられるけど、それを認識で掴んだ時には今じゃない。

もう過去になっている、みたいなことをよく考えるんですけども…。

 

【老師】

ご苦労様です(微笑みながら、お辞儀する)。

ご苦労様なんですよね。

生活の様子に触れてごらんなさい。

本当に一度だって、ずれたことがないじゃないでですか、こうやって。

他のことが一切起きてこないんだもの。

どこを捕まえてなんて言わない。

本当に今の真っただ中に、ずーっと生きてますよ。

身体(からだ)全体見てごらんなさい。

先ほどの様子はどこにもないんだよね。

で、いまの様子って言って、捕まえていくような活動をしてないんですね。

無くなりもしないし、どこからも来ないし、不思議な活動なんです。

およそ私たちが考えてるような事ではないね。

今と言ったら今から、離れるじゃないかっていう、そういう活動自体だって、ぜんぜん今から離れてもいないし、ずれていないでしょ。

ただ、そうしゃべったとおり、思ったとおりの事が、その時、その時、きちーと行われたままで。

理論的には言いたくなるんですよね、そうやって、捕まえたらって。


#4 体験、知らずにつくもの

 

【質問者】

井上老師のプロフィールを拝見して、十代の時に野菜を採りに行かれた時に、その気づかれたという風に拝読したのですが、その時にはどのような事が起きたんですか?

 

【老師】

今まで聞いてた内容は本当に合点がいったということです。

 

【質問者】

その体験をされる前と、その体験をされた時っていうのはどのような違いがおありになりましたか?

 

【老師】

疑いが無くなるだけじゃん。

自分で疑いがなくなる。

信ずる用がない。

 

【質問者】

信ずる用がない?

 

【老師】

うん、だって、こうやったら、パン!(手をたたく)、こうなるでしょうって、信ずる用がないじゃないですか。

信じなきゃ、納得できないような生き方をしてないもん。

 

【質問者】

じゃ、それまでは念とか、いろんな思いとかが、そのリアリティというかですね…

 

【老師】

私なんかは、小さい時から別にそんなことは、ほとんど問題になっていない。

ものすごい純粋に生きて来たんだもの、うん、ほんとに。

だから学校の先生は(チョークを手に持ち)、これどうして白というかって教えてほしいって言うと困る。

小学校のころ、そうやって先生をいじめるのが好きだった(笑い)。

イヤなやつがいるなぁって思ってたと思う(笑い)。

 

【質問者】

もともとそうやって純粋に生きて来られたけど、合点がいくところまではいかれてなかった?

 

【老師】

ほとんどね理論的にはね、もう揺るぎのないもんでしたよ。

だから、みなさんがなんか気がついて、ひっくりかえるとか、大騒ぎをするような、そんなことは一切ない。

ものすごいおだやか。

 

【質問者】

野菜を採りに行かれた時?

 

【老師】

そうそう。

 

【質問者】

じゃ、一般の人たちは、そういう思いとか、先ほどおっしゃった我見とか偏見とか、そいった念とかに囚われてるので、そこに気づいた時に、こう…

 

【老師】

そうそう、大きな変化があるから、自分で喜べる、驚くってことがでてくるでしょ。

 

【質問者】

老師のお考えとして、普通の人っていうのは我見とかそういう自分の欲っていうか本能とかも含めて、そういったものに囚われているわけですね?それはなんでだと思いますか?

 

【老師】

守るんでしょうね。自分をね。

そうしないと、なんか生きてる価値がないように思うのかもしれないね。

 

【質問者】

自動的に起きるので、たぶん一種の本能の一部だと思います。

 

【老師】

まぁ、それはだいたい教えられてくるんですね。

まわりの人たちの様子の中で教えられてくるんですね。

一番卑近なのは、育てている人たちのものの見方がそのまま、知らない間に受け継がれて、そういうものを持つんですね。

町を歩いても、あの人はって言うんですね。

だれが、あの人はって教えたかって、別に教えた人はないと思ってるんだけど、親たちがそうやって見てるんですね。

そういうものをちゃんと受け継いで、そういう偏見でものを見る子供ができる。

食べ物も、子供は好き嫌いしないはずなのに、子供の好き嫌いを作っている。

親が好き嫌いが激しかったら、親が嫌いなものは、あまり食卓に出ないよね。

そんなふうになってるよ。

 

【質問者】

そうやって、我見とか偏見とかが自動化していく?

 

【老師】

知らずにね。

知らずについているもんだから、ついてると思わないんだよ。

あるとも思わない。

あたりまえだと思ってるんだね。

 

【質問者】

そういったものをとっぱらって、偏見とかをとっぱらって、人間本来のそういう状態に戻すひとつの手段が、その修行の手段が坐禅ということですか?

 

【老師】

手段よりも、いきなりその事実を見せるのが、みなさんが坐ってることでしょ。

これから、そこに連れていくのじゃなくて、やってる中が、そのとおりのことが今やってるから。

 

【質問者】

さっきおっしゃったように、そのとおりなのに、どっかで納得しないんですね?

 

【老師】

偏見とかがついていると、そうは思うけどもって、どっかに思いがつくんです。

わかるんですけどもっていうようなことは、やっぱり思いがどこかについているから、受け入れられないんですね。

間違いないって私も思うんですけどって、そうやってつけるんですよ。

すごい正直なんですよね。

みんな思いの中で生きてる。

 

【質問者】

思いとかそういうものでフィルターをつけてる、色眼鏡でみてるんですね。

 

【老師】

そうそう。

ほんとはどうかって?思いじゃなくて、ほんとはどうかって。

多分、間違いはないでしょうって思うんだね(笑い)。

そこでも、まだ思いから離れきれない。

 

【質問者】

本来の状態に戻るということは、特別なことではないのに、今の社会では特別なことになっているという?

 

【老師】

う~ん、まぁ数の問題かねぇ。

数が少なければ特別な事として扱われてしまうのでしょう。

 

【質問者】

本来ものすごくシンプルで人間の原点に戻るだけのことですね。

 

【老師】

足りないと思うから、とにかく総力をあげて、このものに、いろんなものを学んで、つけて、そして事あるごとに、こう、ものに向かった時に、憶えてきたもの、記憶したきたものを、ここに出して、そして学ぼうとする。

ひどい話をすれば、このこと(水の入ったコップを指し)を飲んだ人が10人いて、10人飲んだ体験を書いた本があって、10冊読んで、これを味わったら、10人の意見が飲んだ時に思い浮かばれるのでしょうね、きっとね。

それよりも、飲んだら、間違いなくこれだけの味がしてるシンプルなあり方があるにもかかわらず。

10人の人の意見を調整して、自分のあり様を実証しなければならないぐらい、頼りない生き方をしてる。

一切そういう人の意見はいらないのでしょう、こうやって飲んだら。

 

【質問者】

本来の直接体験を念とか思いとかが邪魔している?

 

【老師】

していますよね。

 

【質問者】

それを取っ払うのが坐禅ですか?

 

【老師】

坐禅は、そういことをやってますよね。

そうすると自由に活動できるようになってるんですね。

 

【質問者】

原点に戻ると、自由に活動できるようになってるんですね。

 

【老師】

そうですよ。

例えば、こういうもの(コップ)ひとつでも、どんな利用の仕方でもできるわけじゃん。

だけども、これは(コップ)何かを入れるものだっていう風に教えられていると、他のものに使えない様な気配があるじゃないですか。

ねぇ。

 

【質問者】

何に使ってもいいわけですよね。

 

【老師】

そうだと思いまよ。

どぶさらいをする時、これ(コップ)でこうやって汲んで、出してもいんだと思うんだけど。

「そんな汚いもの入れて」って言うんだけど、じゃこれが汚れるのかって?

 

【質問者】

ガラスだから、洗えば元に戻りますね。

 

【老師】

うん、取れさえすれば元のものに必ずなる。

だけどそれよりもイメージの方が残る(頭を指す)。

これで汲んだやつで水出されて飲むのかって。

やなんですねぇ(笑い)。 

 

【質問者】

そこで、念とか思いが…

 

【老師】

間違いなくやられる。

嫌いな人が使ったコップだけどって、ちゃんと教えといて、お茶を入れて、どうぞってこうやって出す。

「その人が飲んだやつ、やだー」ってそのくらいなことなんだよね。

これ(コップ)になんかくっついてるわけじゃない。

そうやってイメージでやられちゃう。

不自由なんだねぇ。

こんな例を前にも出したかもしれませんが、一万円札とか、お札のようなもの、どんな人が使ったものでも、あげるって言ったら、おそらくスッと手を出す(笑い)。

嫌なやつが使ったやつだぞ、って言っても、ぜんぜん抵抗なくもらうんですね。

さっきまで、あの人のポケットに入っていたもんだって思っても、別に抵抗なく、どこが違う?

ものに対するやっぱり見方が、自分の中にあるんですね。

食器棚にものが並んでる時に、毎日使ってる私のものと思ってる食器を他の人が使うといやな感じがするけど、その他並んでるものは誰が使ってもなんとも言わない(笑い)。

 


#5 坐禅の内容

【老師】

なんか、ありますか?

いつでも、どこでもできるからいいでしょう?これは。

ずーっと24時間自分といっしょにいるんだから、すぐできそうだ。

今やってることで勉強ができる、こんなすばらしい教えってないですよね。

 

【質問者】

先ほど色眼鏡を通さないで考えないことを過ごすのを感じる時間が、坐禅やとおっしゃと思うんですけども、例えば、坐禅中にいろんな考えが浮かんで来るのを、流して行くような感じだけでは意味がないというようなニュアンスをおっしゃったと思うんですけども、そうしたら、こだわりが無い状況を見るぞっと意欲をもって坐禅をした方がいいんですか?それとも坐ることに意味があるのか?

 

【老師】

だって、自分自身の様子に無関心でいて、どうするんだろう?

日常生活だってそうでしょう。

ものを作る時に自分で作ったにしても、どのようになったか、どのようにやったか、全く無関心で生活している人は、ほとんどいないんじゃないですか?

 

【質問者】

自分自身の内面に関心を向ける時間であると?

 

【老師】

だって他の人の内面に向けて、それ知ったところで、どうするんですか?

 

【質問者】

とにかく内面に目を向けることができるのが坐禅?

 

【老師】

内面というよりも自分自身ですよね。

 

【質問者】

そこから先入観がない状態を見るぞっというのは、逆にそれに囚われているみたいな感じなので、出るがままに、ずっとおるのがいいのか?それとも、そういう考えが無いような感じを目指すのか?そのへん、ちょっとピンとこないですけどね。

 

【老師】

だから、出てきたものに対して、そのままでいるのがいいのか、悪いのかって、そういうふうなものの見方をしてる間は、結局は何もしていないのでしょう、坐ってないでしょう。

ずーっと考え方の中で、取り扱ってるだけの様子だってことが、まざまざと見えるじゃないですか。

立ってごらんと言った時に、立たずに立ったらどうなるんだろうって、言ってるのと全く同じでしょうね。

出てくる思いを、そのまま流していけばいいでしょうか?って、そういうような、みんな考え方の上で処理しているんでしょう?

出てきたものをそのまま流すっていうよりも、出てくるもの、そのまま終わっていくんだものね。

自分でどうもしないうちに終わっていくでしょう、次のことが思えるようになると、前思ってたものにこだわっていられないでしょう?

ここを(左を指をさし)見てたものを、こっち(右を指をさし)見たときに、前見てたものをこだわっていられないでしょう?

別に流したわけじゃないでしょう?前に見てたものを。

手放して云々て、一切そういうことをせずに、こうやって生活していますよ。

それが実践している様子です。

自分自身の様子みなそうなってる。

それを知らないと、そうやって考え方で、出てきたものを手をつけないように、そのままにほっといて、流れるままにしておくとかいう。

 

(救急車の音がする)

ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポーって、それだけですよ、それで終わるんですよ、あれ。

(救急車の音がやむ)

ほら?

(一同笑い)

 

終わったでしょう、どうもしない、ピーポーっていっただけで、ピーポって終わっちゃうんだよね。

そのままにしておくとか、流すとかじゃなく、ピーポ、ピーポ、それで終わっちゃうんだよ。

違うでしょう?考えてることと、ぜんぜん違うんです。

うん、似たような話はするんだよ、だから。

似たような話をするんだけど、ほとんど頭で小細工をした話です。

だから、お互いに考え方の世界で生きてる同士だと、そんなことはよくわかるもんだから、納得するんですよね、言ってること。

納得するんだけども、うまくいかないんですね(笑い)。

ああやって実際の生活をしている様子にふれてみると、何もするわけじゃない。

ピー・ポ・ピー・ポっていってるだけじゃないでですか。

だってピッっていったら、それであと無かったら、何もしないでそのまま、一切問題になるものはでてこない。

ねぇ、こんなにうまくなってるじゃない。

いつでも、だから自分の生活しているものにふれてみると、よくわかる、どういうふうに生きているのか。

ものが見えてる、見えてるっていうけど、何が見えてるのかっていったら、今ふれてるものが見えてるだけですからね。

あとは頭の中で、みたものがあるもんだから、あそこに、ああいうものがこうなってるっていうふうに描いて、いかにもそこにあると思ってる。

めったなことがない限りは、行ってみると同じようなものは、そこにあるもんだから、ほらほらちゃんとあるじゃないかっていうんだけど、それは、そこに行った時にやっぱりそのように見えるだけのことです。

うん、それ以外のことは、生活のなかでやってないんだよね。

自分のことだから、見てごらん。

ものはいろいろ見えてるっていうけど、今ふれてる様子だけがあるだけですよ、いつも。

ごたごたすることは、一切ない。

どうしたら、今だけの様子になれるかなんていうことは、はなから論外です。

 

【質問者】

じゃ、ただ坐れと。

 

【老師】

実際、坐るとか坐らない前にそうなっている。

だから、本当に余分なことをやめて、この事実にこうやっていてごらんって、そういう時間です。

実物が証明してくれるっていうことじゃん、内容を。

本当に自分が生きてる生き様そのものが、自分の生き様をどうなってるかはっきりさせてくれる。


#6 自分を救う道

【質問者】

坐禅している時に、あることを思いついて、それでまた別のことを思いついて、それで時間が過ぎて行っていいんですか?

家だと、なんか思いついたり、思いだしたりすると、あっあれをやらなくちゃ、もう坐ってられないわけです。

メモしなきゃとか、思い出したりすると家では、なかなか1時間でも坐っているのが難しいんですけど。

仕事に段取りしたりとか、思いついて、あっ忘れたとか。

で、ここにいると動けないもんですから、なんか思いついて、また内容が変わって別のことを思いついて、それで時間が過ぎたりしているんですけど、そんなのでいいんでしょうか?

 

【老師】

いいとは言えないね、一言で、いいとは言えないね、それは、坐ってるわけじゃないもんね。

形だけこうやってるけど、過ごしてる内容は頭の中で思い出てくるものを相手して、時間を過ごしているだけで遊んでるだけでしょ、思いわいて。

そいうことは、しないってことだから、坐禅は。

 

【質問者】

それで、鐘が鳴るんです。

 

【老師】

だから、そういうふうな過ごし方しか、知らないということでしょう。

で、坐禅の時間ていうのは、内から離れて、それで一切いろんな仕事から手を出さずにいれる時間を、わざわざ作ったわけじゃないですか。

もう、本気になって何もかもほっといて、いい時間を作ったんじゃないですか。

それなのに、その中でさえ人間が生きてると、いろんな事が思えるから、どうしてもそれを相手にしなきゃいれないくらい、この思いって言うのは、気をつけてみないと、すぐそっちに行くんですね。

この坐禅の時間の中では、どんな事が出て来ようと、一切問題にしないで、過ごそうっていう時間なんです。

そういうふうに身も心も守られているんです、この行だけすればいいって。

考え方を本当に離れて過ごすっていう時間作ったんです。

そういう中に身を置くんですね。

だから、思い切ってここでは、自分のそういう思いを手放していても、誰からも文句言われないし、不謹慎だとも思われないし、それをやればやるほど、ちゃんと修行してるなって褒められるかもしれない(笑い)、けなされることはない、そういう時間帯なの。

それなのに、そういう中にいながら、普段の生活となんら変わらない過ごし方をするってことは、やっぱりもったいない。

普段の生活の中では、本当にそれがなかなかできないじゃないですか。

電話鳴ったのに、なんで出ないのかって言われて(笑い)、ほら、もうお昼だから食事の時間だ、料理を作らくちゃと言われる、坐ってなんかいられない、ねぇ、そういう主婦って、そいうような状況にあるのでしょう。

ところが、この坐禅の時間は坐らしてくださいって言ったら、だれもそこに入ってきて邪魔をしないようにできている。

そういう大事な時間を作ったわけじゃん。

だから、それを有効に過ごさない手ははないよね。

ここまで来てさ、まだいろんなことを引きずってて過ごすんでは、あまりにももったいない。

でも、坐ってるとね、いい考えが浮かぶんだよねー(笑い)。

気づかなかった事を気づいたりしてね。

今にでもすぐ行って、すぐにでもやりたくなるぐらいのことが出てくるんだよね。

だから、ほっとけなくなるんでしょうね。

ほっといて、時間が過ぎて坐禅が終わった時に、さっき思い起こしたやつは、あれ?なんだったろうって、思わないとでて来ないと、つまらないと思うから、ずーっと忘れないように思いながら時を過ごすから、カーンって鐘がなるわけだ(笑い)。

それは本当に坐禅はしていないよね、悪いけど。

いや、本当にそういう時間なんです。

坐禅をする時間て、そういうふうに設定してあるの。

「諸縁を放捨し、万事を休息して」って、そういうふうになってます。

いろんな事が、みんな生きてるから、あるに違いない。

だけど、そういう中で、このこと本当に大事だから、全部ほっぽいといても、この坐禅をする価値の方が、はるかに内容が尊いってことがあるから、こっちをやるんですね。

これは自分を救う道だからね、根本的に。

思いの中で、あれをしたら、これをしたら、ああもしたら、こうもしたら、それを実行したって、人が本当に救われるかって、そんなことはないです。

どこまで、やったって思いがつきないくらい、いろんな事がでてくるから、これでもう全部やりつくしたなんてことにはならないよ、生きてて。

そういう中で満足感は、絶対得られない。

次から次に、やりたいことが出て来るんだもの、一つやったて思ったって、束の間の喜びですよ、で生涯あくせくして生きていく、それに生きがいを感じている人もいるね、あくせくして生きてて。

ほんのわずかな時間でも、自分の思いから解放されると、豊かな時間ですよねー、ほっとする時間でしょ。

考え方が止まるって、すごいことですね。

 

いや、あなたをいじめるわけじゃなくて、修行してるっていう形の中でも坐禅の時間に、おそらくそう変わらない過ごし方をしてる人たくさんいますよ、本当に坐らないんだよ。

だから帰ってきて聞いてみるとわかる、どうだった?って。

「いやー足が痛かった」とか「時間が長かった」とか、何してるんだと思う、その程度?「今日は気持ちよく坐れた」とか、そんな話しか出てこない。

だから、みなさんだって、時間を割いて、わざわざここまで来て坐るんだから、効果があるようにやるんだったら、本当にここに来たら、そういうことをやるべきじゃない。

見に行きたいところ、わざわざ時間とって見に行っても、うちの…は何やってるんだろうって、そこで過ごすんだったら、それは下手でしょう(笑い)。

海外ぐらいまで行くと、思ってもしょうがないから、だいたい止まるんだろうけども(笑い)。

国内だと、ねぇ、近いところだと、ほとんど家にいるのと変わらないくらい。

ここは別天地ですよ、海外旅行よりも、坐禅の時間は、全く別天地ですよ、その時間帯は。

こんな素晴らしい世界に足を踏み込むなんて普通ではない。

 

どうしても困る人達のために、先輩たちがメモ帳を置いて、どうしても坐ってる時に気になるようなことが出てきたら書き留めて、そしてほって坐りなさいって、そういう風に教えてる人もいたね。

これももまぁ、ひとつのやり方かもしれないけども、集団できちっとした道場で坐る時、そんなことすると叱られるから、それはできませんけど。

こういう個人的な会でやってる場合は、指導者がそれを許せば、それはある程度可能でしょう。

歌を詠む人なんかでも、歌ができちゃうんだよね坐ってって、まずいんだよね、いい歌ができる(笑い)。

これをどっかに投稿しようと思って、忘れちゃうとまずいんだよね(笑い)。

探してたものが、そういえば、あそこにあったかなーなんて、気がつくんですよね(笑い)。

ほんと、困ったもんですね(笑い)。

それを坐禅の功徳と一般的にはいうのでしょう(笑い)、まぁ、そうかもしれないけどね(笑い)。


#7 皆で集まってする質問

【老師】

でもこうやって、いろんな人が質問してくれると、そういうことをお互い聞いていて、何か、あぁなるほど…、そういことを…、あぁそんな…、いろんな事を気づくんだよね。

だから、ある程度の人数でやるっていうことは効果があるじゃん。

一人でやっていると、その人が考えてる事だけが対象になるだけだからね。

自分でも気が付かない事を教えてもらうってことがあるね。

だから独参というよりは、こうやって公にほんとは話しをした方がいいなと思うんだけど、なんか人に聞かれたくない様な話しをする人もいるから独参するんだ(笑い)。

ほんとはそんな秘密なものはないんだよね。

そんなもの持っちゃいけないんだ。

そんなものあるから邪魔なんだ。

人に隠していなけれりゃならないような生活ばかり…。


#8 忘れっぽくなる?

【質問者】

考えを持ち込まずに、過ごすっていうことをしてるうちに、すごく忘れっぽくなっているんですけど、ほんと、ちょっと前のことを全く憶えてなかったりとか、そういうことってあるもんでしょうか?

 

【老師】

どうでしょう?(笑い)

 

【質問者】

だいぶ引きずらなくなったような気はするんですけど、記憶に留めることが、ほんと書いとかないと、前のことがぽっと抜けてたりとかあるんですけど。

 

【老師】

まぁ、あまり心配しなくていいと思うよ。

忘れていたことに気がつくってことがあるからねー、救いですよねー(笑い)。

ただし時間が過ぎちゃって役に立たないことはあるかもしれない。

でも、こと重要な事に対して人間はそんなに愚かには生きていないなぁ。

だいたい、どっちでもいいと思うぐらいの事だから、野風増にこう生きてるんですね、忘れちゃっても。

行っても行かなくてもいいかなと思うくらいの事が多いじゃないですか、義理立てして行くとかさ。

命がけで、そのことをやらなきゃいけない、っていうようなことに出くわした時に忘れちゃったぁ、といようなことは、まぁないねぇ。

あとは、気がついた時に、すぐ動けば相当な効果があるね。

ぐずぐずしていると、どんどん時間がたつからね。

まぁ忘れてたって気づいても、すぐ活動したらいい。

どうせ、今からやったって取り返しがつかないから、まぁほっときゃいいかって、そういうふうに考えると、あと大変なんだよね(笑い)。

素直に動いたらいいと思うよ、それであまり責める人はいないでしょう。